雑草が面白い?地方に滞在することで気づく地味な部分とは

最近自宅を離れて好きな地方に滞在することが多い。
自宅でPC作業を請け負うようになって久しいけれど、自宅にいてばかりだと目先が固定されてしまうせいか、クリエイティブなPC作業などには不向きかな?と思えることが多い。

もともとずいぶん昔に自転車をキャンピング仕様にして日本列島を旅していた経験もあるので、外国は経費的に無理だとしても国内だったら安い宿を探して見つけて、ちょんの間的に他の地方に滞在する予定を仕掛けるのが楽しみになっている。

だいたいは人気の多い場所はあまり好きではないから、代替行くのはそれほどに大きな市街でもなく、それでいてそこそこ交通の便があって飲食など生活の必需品を苦労なく手にすることができるようなトコロに訪れている。

ただそうはいっても、そんな理想的な場所に毎度出くわすことはないので、どこかで妥協しているのが当節の現状になるし、特に初めて訪れてみる土地などでは、物珍しさが先に立つためなのか、割合に喧噪な場所とか市外の中心部に宿を取ることも多いし、それほど苦にならないことが多い。

そんなふうに自宅を離れてそこそこ遠い場所に滞在すると、最初は確かに物珍しさが先に立って目にする風景とかだけでも新鮮に感じるものだけれど、もちろんある程度の長逗留になるとそれにも目が慣れてくるわけで、そういうときは喧噪な場所で貼るかどうかはさておいて、最初とは違った別な物事に関心の目が移ることも多い。

とくにそういう視点の変化の中で一番のポイントになるのが、最初は気づきもしなかった何の変哲もない、ごくごく地味な対象物になるようだ。

その好例が道ばたに生えている雑草。
雑草とひとくくりに言ってしまえば、いわば全国にくまなく生えているあれだ。もちろん私の自宅付近や近隣の街にだってある、無数の種類が無数にある。
言ってみればあまりにも見慣れすぎて、どういうふうに観察しようとしても」空気のようにむなしく目に入る物の一つだろう。特別に生物とか植物に関心があったり研究しているなら別だけれど、雑草ほど見て何も感じない植物というのも他に見当たらないのではないだろうか。

私の住まいはほぼ日本の中心だが、そこからそこそこに遠ざかろうとも雑草というのは当たり前にちゃんと道ばたに生えているわけだ。
けれど、たとえば日本の北端とか南端に行ってみるとこれが変化してくる。
気候も変わるから生える雑草も変わる、当然と言えば当然になる。

でも他の地方に滞在すると、私にとってはこれがけっこう目にとまる。
特に日本列島の北端とか西端に行ってみれば気づくけれど、確かに変わる。中には劇的に変化を見る雑草があったりする。

そのひとつ。
いつぞや北海道に行ったとき、道ばたに生えている雑草を見て驚いた。
蕗(ふき)だ。
もちろん蕗は我が家の地方にもちゃんとあるけれど、北海道のものを見て驚くのはその大きさ。
とてつもなく大きい。
はの大きさたるや,大きいのになると差し渡しで1メートルにとどくくらいのだって珍しくもない。

この巨大な蕗で思い出すのは小学校の低学年時代、国語の教科書に載っていた「蕗の下の神様」という童話である。
宇野浩二さんが大正時代に著したもので、アイヌの伝説に登場するコロポックルという妖精の物語になるが、当時の私としては
「何でそんな神様があんな小さな蕗の葉っぱの下にいるというんだろう?」
みたいな疑問丸出しだった。

そもそも我が家の近辺でも確かに蕗は育っている。それこそちょっとした田舎道とか山道だと道ばたにいくらでも見かけるけれど、そんな蕗の葉は大きくてもせいぜい差し渡しは20㎝になるかならないか、だ。
これに対して神様、といえば大きければ普通の人間並み、妖精とか小さいのになれば一寸法師みたいなものしか想像できない。

でも仮に一寸法師並みの小ささだとしても、あんな小さな蕗の葉の下に長々居座っていられるものなのか?雨や雪が降ったらどうするんだ風が吹いたらどうするんだ?
という風に疑いばかりが先立っていた。

だが初めて北海道に行って目の当たりにしたのは、そんな見慣れたのとは大違いの大きさの蕗。それもちょっと町中を外れて田園地帯に行くと場所によっては集団で大きな葉を広げている。
そういう情報も前もって記憶していたけれど、実際に目にすると確かにインパクトだった。
あれなら妖精どころか人間の子供だって葉の「傘」のなかに入れるだろう。

普通私たちはこう考えるだろう。
北国は日照時間も短く、日差しも弱いし寒い。だからもっと南の地方と違い、雑草などの植物もなかなか育たず小さめになる。
一応こんなふうに考えるのが普通だろう。

ところが自然界というのはどうやらそうそう単純なものでもないようだ。
と、よくよく考えを巡らしてみれば、遙か昔の氷河時代。
たまにニュースなどで目にするけれど、シベリア大陸のとある地方で氷河時代に生息していたマンモスの化石やミイラが発掘された、などという場合がある。

大型動物のマンモスがそんな極寒の中で元気に動き回っていた、ということになるし、もっと目先をとらえれば、ホッキョクグマだって同じことが言える。
極地方の極寒の海で熊の中でも大型のホッキョクグマがちゃんと生息している。
北極よりも寒いとされる南極だってでっかいコウテイペンギンがウヨウヨしているわけだ。

こんなふうに、植物と動物との違いこそあるけれど、寒い暑いに生物の大きさはあまり関係しないのかもしれない。

ということで、北海道で見た蕗の大きさにはしばしあっけにとられてしまった。
繰り返すけれどその蕗はもちろん誰が栽培しているわけでもなく、たんに道ばたに自生している、それこそ雑草の一種となるはずだ。

他にも植物の種類によって生息地域が異なるから、我が家の近傍に生えている雑草と北海道に生えているものとは種類的に違いがあるものも多いはずだが、見てみると同じものも生えている。
同じものはそういう気候の寒暖差に強い種類かなと推測する、そんなぼーっと何気にアタマを巡らすような思考の運動が面白いと言えるかもしれない。

ただ、動物はまた別かもしれないが、南方へ行くほど大きな植物が見られるというのは確かに言えるかもしれない。
もちろん日本の他の地方とは種類も異なるはずだけれど、それはそれで初めて見ると異様さに唖然となることが多い。

沖縄の歩道などで見かけたことがあるけれど、街路樹にたわわに実ったでっかいサヤエンドウの形をした実。長さは大体30㎝くらいあるだろうか。
名前は何というか忘れてしまったけれど、確か同じようなものが市場などで見かけたりした記憶もある。ようするに食べるものということだ。

ただ自分のように初見の人間は見慣れるまでがちょっと大変で、ふつうに自宅付近で見かけるインゲンとかサヤエンドウはここまで大きくない、もっとずっと小さくかわいい外見で、一目見れば食べ慣れていることもあって祖味まで連想できるというものだ。

ところがここまで多きものになると、異様さが先にインパクトとして立ち上がり、気味の悪さ、怪物のような外見に食欲が押しつぶされていく感がある。

その理由に付け加えたい一つとして、子供の頃見たムカデとかゲジゲジ。これがこういう「大きなエンドウ豆」を見ると記憶のフラッシュバックが起きて、あたかもこのエンドウ豆に足が生えて動き出す、そんな連想がされていくのかもしれない。

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