本日、突然に愛用していたデジタル腕時計が止まってしまった。
液晶画面で日付や時間を表す、そして値段も購入当初でわずか千円前後、日本のメーカー製という優れものだった。
通販サイトでその購入時点からの通算年数を調べようとしても出てこない。
取扱説明書の中では稼働年数は確か7年とか書いてあったと記憶するけれど、現時点まででそれを大幅に超えていて、大まかにはその2倍くらいの使用期間が実際にこの時計、嫁せいてきているはずだ。
よく無事に今まで動いてくれたものだ、と半分は感謝になる。
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で、その約にして10年以上もの間、落ちることなどもなかった。
相当に荒っぽい使い方もしたはずだけれど、何の支障も起きたことがなかった。
さすが日本製、とくくっていいのか分からない。
この腕時計を使用している間にも、実は同じような値段のラインナップで数個のデジタル腕時計を買っている。
この腕時計を買った後で、通販サイトの購入履歴に出てくるだけでも他の腕時計を4個ほど買っているのだが、そのうち1個をのぞいて全部故障。
故障と言っても時計の機能本体が壊れたわけではなく、時計を腕につけるバンドが切れたり壊れたりして、腕時計としては役に立たなくなってしまった。
ただ、そういうわけで時計本来の機能は生きているし、今でも正確に稼働しているので、安物とは言えちょっと手放す気にはなれない。
ということで、実はそういう“故障した時計”のいくつかはPCデスクの脇に時計本体の画面を立てた状態にしながら「置き時計」にしている。
バンドだけを別に買って新しくすれば腕時計としても再利用できるのだが、自分の荒っぽい使い方でまた再びバンドが切れてしまったりするとまた損なことになる。
だからあくまでもと自分で触ることのないようにと、置き時計化している、そういういきさつがある。
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ということで、時計自体の機能は損なわれていない、腕に巻くバンドこそ行かれてしまったが、結局のところこういう置き時計化してしまった腕時計、次から次へとバンドばっかりがいたんダリ切れてしまったりして、手元のデスクの横にはそういう時計の盤面だけを立てて見えるようにしている腕時計が累々と置かれてしまった。と言っても2個3個だが。
でもこういうデジタル仕様の時計というのは返す返すもすごいもんだ、と振り返って見ると実感している。
私が子供の頃はたとえ腕時計にしてもデジタルはもちろんない。
水晶時計なども確かに中学時代、金持ちの息子が腕にはめて教室に持ち込んできたこともあったがそれでもまれのまれ。ちなみにその男の水晶腕時計、当時の値段でなんと12万円だったというかラ驚きだった。今の価値に直せば優に桁一つ上乗せするくらいだろう。
だから当時は大人といえどネジを巻くタイプの腕時計でみんな過ごしていたものだが、そういうネジ巻き腕時計、必ず問題が起きた。
その最たるものは何と言っても日ごとに時間のズレ、細かく言えば分や秒のズレというのが必ず起きたものだ。
だからそういう時間のズレにテレビの時報などを見ながら気づいては針を直す、その作業が腕時計を持つと同時に半永久的な作業となる。
水晶時計になるとそういった時間のズレがかなり修正され、ほとんど直す必要もなくなってきたことはよく知られている。
そしてその後に出回ることとなった液晶のデジタル時計。これになるともうそういう細かな時間のずれは起こることも考えられなくなるわけで、そういう今のデジタル時計、そして自分がバンドを切って損なってしまったそれらの“残骸”を見るたびに
我々って少なくとも時計を見る限り、ずいぶんとぜいたくになったんじゃないかな?
という感情がこみ上げるのは決して私一人ではないだろう。
何しろあの水晶時計が今の価値に換算して100万円にならんとする、そういう高級なものを尻目に、今普通に買えるデジタル時計と言えば、それこそ値の張る物もあるかもしれないがそれらはいざ知らず、安いのになると千円を切るような値段が付いてホームセンダーの店頭で見かけることも少なくない。
自分にとってはものを乱雑に扱いやすいタチだから、時計と言わずそういう身近にあって“被害”にあいやすいような機器は、とにかく安いに越したことはない。ヘンテコにデメリットのあるようなものは別として、だからものを買うときにはそういう「安いことこそ第一の正義」と捉えて手を出すのが自分だのだ。
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