恐山に夏頃行きました。
その恐山で、本当に信じられないような心霊現象を体験しています。
ただ、科学的に心霊現象だ、と断定できるかどうか、その判断自体もまた難しいかもしれません。
扇情的に心霊現象だと言ってしまう危うさも潜んでいるに違いありません。
ですが少なくとも今回私に起こったのは、
「ほかでは経験したことがない体験」
であり、かつまた
「死者を弔い、慰める行為の中で起きた体験」
そして
「自宅を含め、ほかの仏事では出会わなかった体験」
です。
だから、あくまでも自分の中での思いとどまるもの、と前置きしつつも、これを心霊体験と呼ばせていただきたいです。
そしてそれに合わせ、自分たちの先祖、つまり今生きている自分たちにつながっている身内の死者がどのように関わってきているのか?
これを考えさせてくれる体験でもありました。
恐山はその異様な景観と、死者の言葉を伝えると言われる「イタコ」で有名です。だから恐山といえば、幽霊とか心霊現象に興味がある人なら誰でも知っているでしょう。
ですが私が体験した心霊現象というのは、イタコではなく、本当に突如として起こったものです。
いったい何が起こったのか?
それをお伝えしてみます。
あの世の光景を現出する異様な景色
恐山は青森県下北半島の真ん中に位置している曹洞宗のお寺です。
青森県の山中に位置することもあって、冬場は雪に閉ざされてしまい訪れることはできません。
参拝できる期間は一年の内で4月から10月までとなります。
最近は付近でクマの出没も確認されているため、熊警報などにも注意した方がよいでしょう。
恐山へのアクセスはレンタカーの他、公共交通機関を利用する場合はだいたい次の通りになります。
以下はJR青森駅よりの案内です。
JR青森駅より「青い森鉄道・下り方面」で、野辺地(のへじ)駅まで行く。
⇒野辺地駅で「JR大湊線・下り方面」に乗り換え、下北駅まで行く。
⇒下北駅前より、「下北交通バス・恐山線」に乗り、終点「恐山バス停」へ。
この後は歩いて総門をくぐることになります。参拝料金として500円を門脇の案内所に払います。
鉄道もバスも本数が少ないため、訪れる前に時刻表を十分確認しておくことをおすすめします。
テレビの心霊番組でもよく取り上げられました。また最近ではYouTubeなどのネット動画でもよく目にします。
テレビや動画を見たことのある方ならおわかりの通り、寺院の伽藍(寺院の建物の総称)自体はふつうの寺社のそれ、と言ってよいかもしれません。
しかしながら伽藍を出て、その境内を散策すればおわかりの通りで、普通の社寺では目にできない、さらには現実ではあり得ないような、異様な光景が視界に展開します。
太鼓橋。恐山に向かう道路の1㎞ほど手前に小川が流れており、これが「三途の川」です。その三途の川にかかっているのがこの太鼓橋で、そのほとりには地獄で新参の亡者たちを品定めする役目をする奪衣婆(だつえば)、懸衣翁(けんえおう)の石像が佇立します。
この恐山というのは元々が火山地帯に建てられたお寺のため、基本的には火山の持つ特質と同居しているような状態です。
このため、伽藍の横に広がる広大な敷地は、火山特有の硫黄ガスの吹き出る荒涼とした景観で、それこそそこには草木の一本も生えず、火山活動から組成した溶岩や岩石の堆積が広がります。
その敷地のほとりには宇曾利山湖と呼ばれる湖がありますが、この湖もやはり火山活動により生成されたもので、九州阿蘇山と同じカルデラ湖と言います。
このため水質は強酸性になっており、酸性に強いウグイのほかは通常の魚やほかの生物は生息することができないとされています。
こうみると、恐山というのはまさに「生命のない寺」「死者の里」というのがぴったりなのかもしれません。
恐山に行けば心霊体験に出会える?
こうした景観も手伝ってか、恐山は昔から青森県や周辺の地域の信仰者たちから
「死ねばみんなお山(恐山)にいく」
と信じられてきて、今に続いていると言います。
実際確かに恐山と言えば、イタコの存在をはじめとした心霊関連の現象や経験がメディアを通じて流されてきていました。
こうしたことから、心霊体験をしてみたいという老若男女がこの山深いお寺を訪れることも多いようですし、また無理もないと思います。
ただ微妙なところ、本当にそういう心霊体験がここに来てできるのか?
というと、もともとが不確実な現象でもあるので非常にセンシティブなことでしょう。
興味本位でそれを求めるのも、不謹慎過ぎるというそしりを免れないはずです。
イタコにしても、あくまでも科学的な立証の通じることでもないので、基本的な立ち位置としては、
そのような「イタコを通じて死者の声が聞こえる」という“風習”が今に続いているというに過ぎない、
そう言われても仕方のないことかもしれません。
だから、「死者に会えるのか?」「本当に死んだ家族と話せるのか?」と改まって問われれば、現実的な回答として不可能、あるいは不確実とでも言うしかないはずです。
院代・南直哉師も自ら実証?
その裏付けになるかもですが、この恐山に務める僧侶の中で、院代という高位にあり、かつ多くの書物を著している南直哉(じきさい)という方がおられます。
今回の恐山宿坊・吉祥閣に滞在中、たまたま同師の法話を拝聴する機会に恵まれて、いろいろな人生訓や体験談に浴しました。
南直哉師の法話はユニークでくだけた語り口や内容で目からうろこが落ちるような体験でしたが、その中で特に興味深かったのが、
幽霊が実際に恐山にいるかどうか?
これを自ら確かめようとして、真夜中に恐山の荒涼とした敷地に出向いて歩き回ってみた、といいます。
「恐山は開闢以来の昔から霊魂の集うところ、幽霊が集まるところだと言われている。だから、そういうものがいるならともかく、いなかったとしたら、何百年の長きにわたって詐欺を働いていた以外の何物でもないじゃないか。
「本当にそうなら何百年にもわたって信者をだましてきたことになる。あまりにもふてぶてしい詐欺行為だ。だから恐山の名誉を守り、そんな詐欺じゃないことを立証するためにも、一発確認しなきゃならないだろう。」
というようなことを同師は法話の中で語っていた、と記憶します。
その結果。
何にも出てこなかった。
何にも出会えなかった。
何にも見えなかった。
だそうです。
私自身は霊魂が全く存在しない、とは主張しませんし、恐山という場所はそういう霊魂の集うところであるとは思っている側の人間です。
ただそれでも、確かにこういう場所というのはいたずらにそういう種類の噂や疑いの対象になりやすく、それこそ火の気のないところに煙を立てようとするようなケースもあると思いますから、十分慎重に、控えめに考えていく必要があるのではと思います。
自分が幽霊と間違われた?
で、法話の中、この南直哉師の実体験にはまだ尾ひれがついています。同師がそんな風に真夜中に出歩いてみたまではよかったですが、南師が敷地の中で動いている姿を吉祥閣に投宿していた中で、遠目で発見した人がいたらしいです。
白の寝間着で、暗闇の恐山の敷地をあちこち動き回っている姿は、遠目から見たらまさしく幽霊そのものに他ならない!
と驚いたその宿泊客は、明くる朝血相変えて吉祥閣の受付に飛び込んで、「夜中に幽霊を見た!」と大騒ぎで主張したとかです。
その勢いに気圧されて、
「さすがにそれは自分だ、と言えなくて困り果てました。」
法話の中で語った南師でした。
自分の出会った心霊体験とは?先祖の関わりと今生きている人たちをつなぐもの
さてそういうわけで、自分が恐山で今回出会った心霊体験について、説明してみます。
い今回は7月初旬に3連泊で、一緒に先祖供養もお願いしています。
数年前の前回は先祖供養も申し込みませんでしたが、何とはなしに今回は先祖供養も頼んでみようか、という軽い気持ちでもありました。
前回と同じく境内に隣接している宿坊・吉祥閣に泊まり込み、数日を過ごしています。
吉祥閣は『お寺の宿』のためもあってか、ホテルに見られるようなテレビの設置もなく、食べ物を保管すべき冷蔵庫もありません。
ただお茶の備えは充実していて、部屋の入り口に大きな盆があり、そこにお湯をたたえたポットといくつもの湯飲み茶碗が備えてあります。
また手拭いと歯ブラシも用意されていて持ち帰りできますが、カミソリなどはありませんし、浴室もありません。入浴はもっぱら共同の大浴場で、外の湯治小屋と同じく温泉です。
なお外の湯治小屋は大浴場のようにシャンプーやボディソープなども用意されいないので、もっぱら「浸かる」のみの場所です。
先祖供養で先祖が大喜び?涙で泣き崩れる自分がいた
そういうわけで前回はいたしませんでしたが今回はチェックアウトの前日、先祖供養を申し込んでいます。
その翌日、チェックアウトの朝。
いつものように地蔵堂、そして本堂の勤行に参加しました。
その本堂の仏前には、自分のために用意された塔婆が1基立てられています。
不思議なことに、その塔婆を目にした時、何か自分の中でこみ上げるものを感じました。
塔婆は勤行終了時に、仏前からみずからもらい受け、本堂に隣接する塔婆堂に納めることになります。
勤行もとどこおりなく終わり、その後仏前の塔婆を手にしながら本堂を後にして、塔婆堂に向かいました。
ところがその際。
塔婆堂の正面に至ったところ、突然に涙が出て止まらなくなり、声をあげて泣きたくなりました。
なんともいえない感情のようなものが不思議な勢いで自分の中に湧き上がります。
放っておくとボロボロ涙を流してしまう、そんな感情のあふれるのが怖くなって、思わず塔婆堂の手前でしゃがみ込んでいました。
しゃがみ込みながらすすり泣きが始まります。それがしばらくおさまらず、嗚咽の声も混じり、止まりません。
誰だかわからない。
けれど誰かがの自分の中ですごく喜んでいる。
悲しみではない。喜び。
そのような感触がありました。
こういうことってあるんだな。
不思議だな。
そういう心地でした。
先祖供養の涙は先祖の「うれし涙」
この出来事について、後に専門家に訊ねてみたことがあります。
その際、
「ご先祖のうれし涙です。恐山に行って先祖供養を行ってくれた、それをあなたの先祖たちが喜んでくれているんです」
と言われました。
先祖というのは、自分たちに直接血縁があるとはいえ、生きている間には見たり会ったりもしたことがない人たちが大半です。
ついつい気にかけなくなりますし、意識することがあるとすれば年中行事、彼岸や盆の仏事くらいのものでしょう。ほかにも自宅に仏壇があれば、それを見たり線香を立てたりするときに遺影や戒名をチラ見するくらいではないでしょうか。
ですが専門家の指摘を受けてみると、先祖というのは今生きている自分たちに非常に深く関わっている。
そしていつものようにして自分たちと一体になって観察し見守り、あるいは感じている。
いわばもう一人の自分自身と言うべきかもしれませんが、だからこそ自分自身同様にあるいはそれ以上に大切にすべきなのかもしれません。
逆に。
年中行事として、私たちは彼岸や盆、そのほか命日などの仏事を、ともすれば「形ばかり」にしてしまっているのかもしれません。
そこには何ら自分たちの先祖を思いやる心が入っておらず、見かけだけを並べ立てた作業に終始して、その実何もしていないのと同様のことを続けている、それで自己満足している。
もしかしたらそれだけなのかもしれません。
この恐山の体験が、専門家の言うように「先祖のうれし涙」であることが真実であれば、の話になるわけですが、心霊体験というよりは、自分たちにとって自分たちの先祖という存在は、どのように考えていくべきなのか?
それを改めて考えさせてくれる体験ではないか?
と思えるのです。