今回はちょっと視点を変えて、元気が出る、勇気が湧いてくるすごいアイテムをご紹介しましょう。
それは他でもない、故・中村天風(1876-1968)という人の言質録についての著書『運命を拓く』です。
今回は、この本を読んだ私(のあっじ)が、その内容を3つの知恵としてご紹介します。
言葉足らずの点などはどうかあらかじめご了承ください。
このブログは、テーマがスピ的なこと、そして私自身の身の回りの「そういう出来事」なので、どうしてもなんだかそっち系の話に持って行ってしまう傾向があります。
このためややもすれば怖い、暗いハナシが出てしまうことが多くなります。
それはそれでブログ自体の性質としてご理解頂くしかないのですが、ただ閲覧する方たちにとってもそればっかり続けていくのは、気持ち的にもあまり良いことではないと思います。
そこで、ある意味他の記事とは逆のベクトルを持つテーマ、つまりこのブログを閲覧してくださる人を元気づけて勇気を持っていただくような内容をご紹介してみたい、と思い立ったワケですが、それがこの中村天風氏の著書『運命を拓く』のご紹介になります。
すでに読んだことのある方、またもしかしてこのブログ記事をきっかけに初めてお読みになる方にとっては、おそらく非常に内容の濃い、すごいそして高度な事柄を論じていると感じるかも知れません。
でも一見心霊とか、スピ的ではなさそうでありながら、そういうジャンルを含んでいてしかもそれ以上の内容がある、それが私なりの見解ですがいかがでしょうか?
実際私自身、どれだけこの本の内容を消化しているのか、未熟に未熟が上乗せな人間ですので、大変に心許ないというしかありません。
ただそれでも多少なりとも世のためを考えて、この『運命を拓く』から私なりに得た知識のうち、自分の中で
「もしも本書の内容を人に語る場合、ゼッタイにこれだけは外せない、何としても伝えたい!」
と信じている3つのことをお伝えしてみます。
記事内容がこれまでテーマにしてきた心霊的な内容とはかけ離れた感じになるかも知れませんが、あの世もこの世もごくごくおおざっぱに考えれば、人間は「心」でつながってると思います。
その心のあり方を本書は問いかけている、とお考えいただければおわかりになるでしょうか。
だから語弊を覚悟で本書の内容を一言で語るとすれば、
あの世とこの世で共通すること、そしてどちらの世界であっても知って行うべきことが説明されている、
と考えてよいかと思っています。
ですので、このブログの他の記事はお読みにならなくとも、これだけはぜひとも目を通していただければ、本当に幸いです。
中村天風とは?『運命を拓く』とは?
本書は別に宗教とかオカルトチックとかでは全然ありません。
天風氏自身が医療関係者でもあり、かつまた銀行頭取も勤めたことがあるなど、非常に理知的で広範な知識を持つ人でした。
そして本書の内容は非常に論理的な、あるいは科学的な思考に満たされている、そう感じられるはずです。
そこがこの本『運命を拓く』と、中村天風氏のすごいところですね。この本の内容は、すごく中身が詰まっている感じで、ある意味
“読めば読むほどうならせる、開眼させてくれる”
という、とても啓発的な事柄が書いてあります。
だから、私などもこの本を買ったのはもうかれこれ20年以上にもなりますが、何遍となく読み返し、頭に内容を入れ続けていたことがありました。
天風氏のことについてざっとお伝えしてみましたが、これ以上の情報は後に述べるとして、早速私が伝えたい3つのことについてお伝えしてみましょう。
[1]この世、あの世を含めて森羅万象は必ず「向上」の方向に「進化」をしている
まずこの考え方を知っておいてください。
私たちが生きているこの世もそうですし、死んでから行く世界、つまりザックリ言って「あの世」と呼んでいる世界もまた同じになります。
そのすべての森羅万象、現世もあの世も必ず「良い方向」に進化している、向上を目指している、ということです。
より良い、より美しい、そしてより正しい方向。
「真善美」等と硬い表現では言われますが、それに向かってありとあらゆるすべては「運営」されている、それがこの世とあの世すべてだということです。
と、一気に叫んでしまいましたが、これを疑う方もいらっしゃるかも知れません。「そんなことあるもんか!」みたいにです。
ですが、よくよく考えてみるとわかるのではないでしょうか。
たとえばよく言う「天国」と「地獄」、そしてその様相やそこに住む人の「人となり」。
地獄に住む住人がいつも相当に醜く、醜悪な外見で憎悪に満ち、不快極まる行いや心を持つものとして伝えられているはずです。
逆に天国の住人は非常に美しく清楚な世界で、麗しい心根の持ち主が住むものとしてイメージされるはずです。
つまり私たちは、天国と地獄をイメージしている時点ですでに良いもの、悪いものという区別をしっかりしているのです。
また身近を考えれば、事故などで大破した自動車はいかにも見ていておぞましく感じられますが、逆にハイセンスな新車は素晴らしいものに感じられると思います。
要するに悪いものは悪く表現され、良いものは良く表現され、かつまたそういうイメージを呼んでくるのです。
そして私たちはすべて意識の根底にこういう尺度が備わっている、ということになります。
ですがそうすると、私たちは原初的な出発点からすでに悪いものを忌避し、良いものにあこがれて向かうようにプログラムされている、つまり
「私たちはすべて悪い事象から良い事象へと向上しようとする意識が必ず存在する」
ということになるかと思います。
絶えず幸福を目指している、と言い換えてもよいかも知れません。
怪我や病気をすれば必ず体も心も治癒の方向に向かいますし、壊れたものは直したり、捨てたりして新しいものに取り替えたりしようとします。
そしてこれは人間だけに限りません。動植物もそうですし、それ以前に生命を維持するために生きとし生けるものはすべて細胞レベルで向上を進めているのではないでしょうか。
またあの世であってもしかりです。
よく言う守護霊とか主護霊。
そういう高級な霊と呼ばれる人たちは、自分がついている生身の人間を守り、ガイドする作業を通して自身をより向上させようとしていると言います。
そしてそういう霊たちは、優れたものとして私たちは頼れますし、また目で見えたりしたとしても悪霊のようにとんでもない怖さは感じないはずです。
逆にそういう高級な霊ではなく、地縛霊とか浮遊霊呼ばれている霊は、普通の感覚を持つ人ならそういう霊に出会ったり感じたりするだけでおぞましかったり、また目に見えるとすればやはり禍々(まがまが)しいものに映るはずですし、私自身もそういう経験があります。
そういう彼らも長い目で見ればやはり進化向上の底辺にいるにちがいないですし、彼らなりに今現在、気づかずにいるのかも知れませんが、「もっと自分が幸せになりたい」、そうあろうともがき続けている、ということになるはずです。
まずはこういう事柄を知っておいてよいと思います。
その上で私たちは自分たち一人一人が、こういう森羅万象の理(ことわり)の中でどのような行動をとれば良いのか?
それをしっかり考えて行けば良いわけですね。
そうすると自ずからその答えは
「進化向上を営む森羅万象と同じ方向、つまり『真善美』の方向に心と行動を向かわせれば良い」。
このようになるということです。
[2]「喜びと感謝」を持つ勇気を
じゃあ一体、具体的にはどんな気持ちや行動をとっていればよいのか?つまり
「進化向上を営む森羅万象と同じ方向、つまり『真善美』の方向に心と行動を向かわせれば良い」。
と言い切るのはよいとして、そのためにまず私たちは何をすべきなのか?
ここでその足がかりになるのが、[1]で説明したように、悪いものから良いものへの心のあり方を考えればよい、ということになります。
物事はすべて真善美、つまり完全なもの、良いもの、そして美しいものへと向かって絶えず進化しているわけで、[1]の内容と堂々巡りになりますが、心がそれに順応するよう努力すること。
そしてそれに伴う行動もです。
勇気さえあればより完全な、より良いそしてより美しい心というのは誰でも持てるということです。
それを天風氏は「喜びと感謝の気持ちを忘れないこと」と本書の中で語っています。
確かに私たちは悲しいこと、辛いことがあったり重なればまさしく“青菜に塩”で、あっという間にしょげかえります。
仕事や勉強で失敗したり成績が落ちれば誰でも一目瞭然となるでしょう。
そういう際に、ただだからといって私の様な赤の他人が上から目線で「こういう考え方を持った方がよい」みたいにのたまうのは、決してフェアではないと思いますし、状況次第では誰もが声を掛けることすらはばかられる、そういう悲惨なケースだっていくらでもあるはずです。
ですからただ一つ言えるのは、あくまでも自身でできる範囲で、またそういう軽微な状況だというならば、という条件下でしか言い得ませんが、「悲しみ」よりも「喜び」、そして「恨みそねみ憎しみ」よりも「感謝」の気持ちを持ち続けること。
天風氏も本書の中で、聴講者の方たちを前に
「あんまりみんな感謝の気持ちは持たないね」
とも語っています。
感謝すると言っても、何に感謝すべきかわからない、というのが真相かも知れません。
天風氏が生存していた頃よりも今の世の中ではもっと難しいでしょうか。
私もこれについては明快な解答は述べることができません。
言えばあまりに白々しく、紋切り型の説教になってしまい、それこそ本音にならないからです。
だから私はスタートラインとして、以下のように考えます。
仏壇でも神棚でもよいのでそこに向かい、
「有り難うございます」
「感謝いたします」
と、口に出したり心で思ったりして手を合わせること。
感謝の内容は、なんでもよいと思います。
考えればいろいろ出てくると思いますので、とにかく自分で一番ふさわしいと思うこと、できればなるだけ崇高だと思えることをテーマにしてみてよいと思います。
要はとにかく自分の気持ちとしては本心とは言えない、ウソでも良いから、やってみることです。
なぜなら、今は本音で感謝できていなくとも、何度と繰り返しているうちに、次の[3]でお伝えするように、「感謝」という言葉がしっかり「感謝」の想念を連れてきてくれる、そして徐々に不思議とそういう気持ちが作りやすくなるはずだからです。
「3」二重の苦労を背負い込む必要はない!言葉の力と運用に注意!
まず知っておくべきこととして、
私たちは日頃、言葉をかなりの不注意に、そして自由すぎる案配で言葉を使ってしまっていないか?
ということです。
口に出す言葉、文字で書く言葉、またはパソコンやスマホで入力する言葉などなど、言葉といわれるものすべてですね。
「言霊(ことだま)」という言い方もされるとおりですが、言葉というものは非常に恐ろしいほどの力がある、ということであり、だからこそ言葉の使い方、運用をしっかり見直して、正しく使うべきではないか?
それがこちらのテーマです。
そもそも言葉は口でしゃべる限りは目に見えません。文字にして書けばそれなりに目には見えますが、だからといって言葉にそんな大それた力があるとはちょっと信じられないかも知れません。
ですがよくよく考えてみましょう。
「りんご」という言葉を聞いたり文字を見たら、普通はあの果物のリンゴをイメージするはずです。
間違ってもアボガドとかキャベツを連想することはないはずです。あるとすればよっぽど何かで条件付けられた意識を持つ人の場合でしょう。
次に天気、空模様を考えて見ると、私たちはいとも簡単に今の空の様子をとらえて
「今日は天気がいいな」
「今日は雨が降って風が吹いている。天気悪いな」
などと考えることが多いはずです。
ですがここで天気をとらえて「良い」「悪い」と判定するのは、あくまでも私たちの側が自分の都合でとらえ、判定して言っているに過ぎないはずです。天気がいろいろあるのはあくまでも自然の「現象」で、もともとそこには「良い」とか「悪い」の区別はないからです。
もちろん確かにこうして天気をとらえてごく冷静に言い切ってしまうことは、現に自然の大災害などを被っている人たちに対して等は安易にできない、してはいけないはずのことではあります。
ただひとまずその問題はおくとして、しかしそこに「良い」「悪い」という言葉を付けて行くとどうなるでしょうか。
先の「りんご」の話でもしましたが、「りんご」という言葉には果物のリンゴのイメージが伴います。健康的な食べ物とか味などのイメージもあるでしょう。
それと同じ理屈で、「良い」「悪い」などという言葉だって必ずイメージが伴います。
「悪い」という言葉ならイヤなイメージ、ゆゆしきもの、禍々しいことや状態、そういうイメージがあるはずです。
逆に「良い」ならおよそとして「悪い」とは逆にすばらしい、麗しい物事やイメージを伴うでしょう。
問題は前者、つまり
「悪い」という言葉を、先の「お天気」の場合ように自己都合のみで使うことで私たちは余分に苦しむことになっていないか?
ということです。
悪い天気を「悪い」と口にしたり思うことで言葉にし、その言葉によって「悪い」イメージを二重に受け取っているということ。
つまりマイナスなイメージの言葉を発することで、そのマイナスの現象によるダメージ、苦しみを二重に抱え込んでしまうのです。
繰り返しますが「悪い」という言葉には「悪い」イメージが伴います。
そしてそれを聞いたりしゃべったり、あるいは見たりする私たちにも何らかのレベルで気持ちにマイナスの負荷がかかるはずです。
そして、心で思うことだけでもまったく同じなのです。
そもそも心で思わなければ、そういう言葉や文字が口や手で表現されないからです。
「今日は天気が悪いな」としゃべる、その言葉をしゃべって自分で聞く、思うことだけで、「悪い」という言葉から来るマイナスの負荷を自分自身が受けてしまう。
それを聞いたり、しゃべる自分を見ていたりする傍らの人たちも同じ波動が伝わることになる。そしてその結果、周囲にまでマイナスの影響を及ぼすことになる。
だからこれをやめよう、柄のないところに柄をすげるのはやめて、なるだけ心地よい言葉を使うことを考えよう。
これが主張です。
そのテクニックの一つとして天風氏は本書の中で語っていますが、たとえば盛夏真っ盛りの野天にいるなどするときは、思わず
「暑い」
という言葉が出てしまいます。
ですが、それをうまく工夫して、
「暑いなあ、ますます精が出るなあ」
と言い添えることで、逆に元気溌剌(はつらつ)になる引き金にしてしまうのです。
トイレでカンタンに試せる?言葉の威力とは
でも普通の方たちなら
「そんなにおいそれとうまくいくものか!」
「言葉にそんな大それた力があるなんて信じられない」
と、とっさに思うかも知れません。
ですので、ここで面白い実験として、トイレで試せる方法をお教えしましょう。
要するに、トイレに行きたいのを我慢することです。
トイレで小用を足したいと感じたとき、頭の中でだけでよいので
「今は全然トイレに行きたくない、オ●ッコしたくないぞ」
と何度かつぶやいてください。
そうすると本当にトイレに行きたくなくなります!
完ぺきにトイレの必要がなくなるわけではなく、ちょっと時間の余裕ができる程度ですが、それでも気持ち的にも楽になります。
もちろんトイレに行く必要の程度の差はありますが、私自身、何十年と続けてがっつり経験済みです。
あくまでも保証などはできませんが、興味が湧かれたらとっさの場合などに活用してみてください。
この[3]について最後に次のように繰り返します。
仕事や勉強をたっぷり行った後は、誰もが疲れているはずです。
そのとき、
「あー疲れた疲れた!もうクタクタだ。」
と口に出して言ってしまうと二重に疲れることになる、ということ。
口についてだした「疲れた」という言葉の持つ想念・イメージによって疲労が二重に生じることになります!
だからそういうときは、もしも口に出して言うならたとえウソでもよいので
「まだまだオレ、全然元気いっぱいじゃん」
とか、
「今日も気持ちよく仕事(勉強)はかどったなあ。明日はもっとはかどるぞ!」
あるいは天風氏の助言よろしく、
「『疲れた疲れた』とムカシは言ったもんだけれど、今は元気はつらつだ!」
などと言ってみてはいかがでしょうか?
要は、体調や心境に対して本音でなくてもよいのです!
たとえウソでもよいのですね。
なぜなら、こういう『元気が出る言葉』を発することで、しっかり元気の想念を言葉が持ってきてくれますから。
中村天風という人自身がすごい人
ということで、著者である中村天風氏という人は、もうすでに他界して50年以上になりますが、生前はものすごい人でした。
詳細はネット検索を駆使するなどすればよいですが、以下にざっと略歴します。
頭は切れる、大名家(柳川藩)の御曹司。
戦時中には軍事探偵やったり、満州馬賊と斬り合いの戦闘をやったりなどなど、検索すると語り尽くせないほどのものすごい武勇伝がある人です。
ですがその後、当時は不治の病とされた結核(奔馬性肺結核)に罹患。
任務とはいえ今まで多くの人の命を奪ったり欺いたりし、それでいてなお勇気と冷静沈着を失わなかった彼ですが、突如として若い身空で自分の寿命の尽きることに初めておののきました。
そして初めてワラにもすがる思いで、救いを求めて世界各地を放浪。
その末に、あるインドのヨーガ行者(カリアッパ師)と出会い、付き添わされてカリアッパ氏の住むインドのヒマラヤに赴き、その下で修行した結果、なんと不治の病が完治。
そして、ある意味それ以上の恩恵となる、人生の意義について悟りを得た、ということ。
その後もなんと、中国に渡ってあの孫文(1866-1925)の辛亥革命に加わり、彼が建国した中華民国の最高顧問にまで上り詰めています。
そして帰国。日本では実業界に入り、銀行の頭取まで出世した、という人物です。
ということで、ざっと説明してみましたが言葉足らずの点は申し訳なく思います。
繰り返しますが、もっと詳しく知りたい方はウィキペディアなどで検索してください。
また、現在に至るまで中村天風の開発した「心身統一法」など、彼の教えを普及させる目的で運営されている機関として「公益財団法人 天風会」も存在します。
自己責任になりますが、より詳しく中村天風氏やその教えについて知りたければ、閲覧したり問い合わせされるとよいでしょう。
ということで、今回は「この本がすごい!」というテーマで、私(のあっじ)が過去に読んだ中で非常に有益だと印象を持っている本、中村天風氏の『運命を拓く』について、その内容、エッセンスについて3つほどを自己中心的な視点で恐縮至極ですが、ザックリとお伝えしてみました。
いつもの私の周囲にまつわるスピ的な現象とかを取り扱う記事ではなくなりましたが、扱っているのはあの世とこの世にずっしりと大きな共通点をとして存在する「心のあり方」と、そのテクニック的な内容です。
だから大きな視点から言えば、やっぱりスピ的な内容を多分に含んだ記事になっていると思います。
最後に記事内容が拙くて恐縮ですが、閲覧されている方たちに何らかの有益な形として伝えられていることを願っています。